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2023/12/10

岡山・犬養木堂生家

5.15事件で凶弾に倒れた首相・犬養毅(号を木堂)の生家と記念館(岡山市北区)を訪ねました。

20231210_300木堂(1855~1932)は、吉備津彦神社の寺領守護を務めた備中庭瀬村の大庄屋の二男に生まれました。

小田県庁(今の笠岡市)に勤めて国際法に触れ(17歳)、英語を学ぼうと上京(20歳)。新聞社で働きながら慶応義塾で福沢諭吉に学びました。西南戦争(1877)では戦地探偵人(従軍記者)として活躍。

国会開設の詔(1881)が出ると政治家を目指し、第一回衆議院選挙で当選(35歳)。大隈重信内閣(憲政党)で文部大臣に就任(43歳)。藩閥政治を批判し、大正初期の憲政擁護運動では尾崎行雄とともに「憲政の神様」と称されました(58歳)。第二次山本内閣で逓信大臣兼文部大臣(68歳)、加藤高明内閣で逓信大臣(69歳)を務め、普通選挙制を実現させて政界から引退(70歳)。

しかし周囲が隠居を許さず、74歳で政友会総裁に推挙されます。昭和6年(1931)、76歳で内閣総理大臣の大命を受け、犬養内閣を組閣。関東軍が起こした満州事変の対応で退陣した若槻内閣に代わり、中国(中華民国)との関係修復を図ります。しかし、海軍が上海事変を起こし中国が態度を硬化。犬養内閣として武力侵略不支持を表明した矢先、海軍青年将校らが首相官邸を襲撃し、暗殺されました(5.15事件)。

英国流の立憲君主制を目指し、民衆の意見が政治に反映されるべきと説いた犬養。「まあ待て、話を聞こう」と対話を促す犬養に「問答無用」と発砲した青年将校ら。撃たれた後も「今の若者たちを呼んで来い。話して聞かせてやる」と呼びかけた犬養の死とともに、戦前の政党政治も終焉しました。

木堂の生家は、江戸前期の姿に復原され、隣接する記念館では遺品や写真、手紙や書などを展示して、郷土の偉人を顕彰しています。

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