山鹿・鞠智(くくち)城
鞠智(くくち)城(熊本県山鹿市)は、7世紀後半にヤマト政権が肥国(ひのくに)に築いた古代山城の一つです。
築城時期や目的は文献がなく不明ですが、白村江の戦(663)で敗れたヤマト政権が、唐・新羅の来襲に備えて、太宰府を内陸に移し、筑紫に水城を築いて防人を置き、大野城(福岡)、基肄城(佐賀)を築いたのと同じころ、両城の兵站基地として築いたと考えられています。
菊鹿盆地を抱く標高140mの丘陵に、周囲3.5kmの土塁(一部は版築)と3つの城門、水門、貯水・貯木池跡、建物跡(掘立柱・礎石群)が発見されました。国内の古代山城では初の八角形建物跡、軒丸瓦、百済系仏像が出土。百済の亡命官人の関与が推認されています。
城は、古代山城としては異例の300年間(7世紀後半~10世紀後半)も続きました。この間、太宰府防衛の兵站基地(7世紀後半)から、倉庫群を伴う官衙(8世紀)へ、最後には大型倉庫群(8世紀後半~)に役割が変化しています。
唐との外交が回復して国防の要がなくなり、南九州支配(隼人対策)に重点が移り、隼人が服属した後は、律令制下の徴税(米)倉庫・非常時の備蓄施設として使われ、平安末期に廃されたと推測されます(諸説あり)。
城跡は歴史公園として整備され、ガイダンス施設のほか、防人兵舎と板倉(武器庫)・八角形建物(鼓楼)・米蔵を当時の工法で復元。平成16年、国史跡に指定されています。
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