島原・肥前島原城
長崎県の島原半島は、戦国期にキリシタン大名の有馬氏が、布教と南蛮貿易を奨励して栄えました。江戸初期、大和五條から移った松倉重政は、新たに島原城を築き、城下町を整備しました。
新しい城は、南北に本丸、二の丸、三の丸を配し、堀と石垣で固め、五層の天守と3つの三層櫓、7つの二層櫓を練塀で囲み、四万石の小大名には過分の城構えでした。
松倉氏は、城普請に領民を総動員し、苦役と重い年貢(九公一民)を課し、払えないと家族まで処刑する苛政に加え、徹底的にキリシタンを弾圧。圧政が「島原の乱」(1637)につながり、二代松倉勝家は責任を問われ斬首改易となりました。
城は、松倉氏二代・高力氏二代・松平氏五代・戸田氏二代・再び松平氏八代の四氏十九代の居城として、明治維新まで続きました。
松平氏六代忠恕のとき、「寛政の大地震」(1792)で普賢岳が噴火し、眉山が崩壊して城下町を埋めましたが、城は倒壊せず耐えています。
城は明治に破却され、現在の天守は昭和39年(1964)の再建。内部は、キリシタン資料、松平家関連資料などを展示しています。本丸には、西の櫓、巽の櫓(西望記念館)、丑寅の櫓(民具資料館)が再建され、旧三の丸から御馬見所が移築されています。
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