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2023/10/03

南島原・有馬キリシタン遺産記念館

島原のキリシタン史は、戦国期の領主・有馬氏に始まります。

20231001c戦国期、九州北部の諸大名は、南蛮貿易で得る富と武器の見返りに、宣教師の布教を許しました。

島原の領主・有馬晴信は、勢力を拡大する佐賀・龍造寺氏との領地争いが絶えず、南島原(口之津)に来航する南蛮船との貿易に活路を求めます。

自らも洗礼を受けキリシタン大名となり、織田信長の許可を得て、セミナリヨ(神学校)を建設。遣欧少年使節(1582)を派遣するなど、熱心に宣教に協力(逆に、領内の寺社を破壊して弾圧しています)。沖田畷の戦(1584)では、宿敵・龍造寺氏を破り、戦勝に感謝して領地の浦上村(長崎)をイエズス会に寄付しています。

豊臣秀吉は、布教による植民地化を警戒。伴天連追放令(1587)で宣教師の国外退去を命じます。晴信は、秀吉の九州平定や朝鮮出兵に臣従しつつ、追放された宣教師、セミナリヨやコレジヨの神学生を領内に受け入れ保護しました。

徳川家康も、当初は貿易を重視し、宣教を黙認。晴信は、家康の許可を得て、日野江城下に大天主堂を建設(1600)。また原城(1604)も完成し、幕府から朱印船貿易の許可を得て、東南アジアと交易するなど繁栄を謳歌しました。

宣教の拠点となった島原・天草地方では、領民の多くがキリシタンでした。晴信の突然の失脚(1612)で庇護者を失った島原のキリシタンは、これ以降、幕府の厳しい禁教令の下、長い弾圧の時代を迎えることになります。

この記念館は、有馬氏に始まるキリシタン史の光と陰を「南島原の繁栄とキリシタン文化」と「キリシタン弾圧と島原天草一揆」の2テーマに分けて展示・解説。原城跡を訪れる前に通史を俯瞰でき、理解が深まりました。

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