南島原・原城跡と島原の乱
原城は、慶長九年(1604)、領主・有馬晴信(キリシタン大名)が築いた日野江城の支城です。
三方を有明海に囲まれた天然の要害に、二の丸、三の丸、鳩山出丸、天草丸など中世的な土曲輪と、本丸は石垣に隅櫓・三層櫓・多聞櫓を巡らし、櫓門を設けた近世的な造りでした。
晴信は慶長十七年(1612)に失脚。その子直純も日向延岡に転封となり、元和二年(1616)、新たな領主として松倉重政が入封。元和四年(1618)、島原城を築いて本拠を移し、原城は廃城となりました。
島原・天草地方は、キリシタン大名の庇護で宣教の拠点となり、領民の多くがキリシタンでした。晴信の失脚と幕府の禁教令(1612)以降、キリシタン大名はいなくなり、厳しい弾圧の下、改宗する者と密かに信仰を続ける者に分かれていきました。
松倉氏は、城普請に領民を総動員し、苦役と重い年貢(九公一民)を課し、飢饉でも容赦せず、払えない者は家族まで処刑。さらには、キリシタンを蓑に巻いて火を付けたり、雲仙地獄で逆さ吊りのまま熱湯漬けにするなど、弾圧は残虐を極めました。
松倉氏二代の圧政に耐えかね、寛永十四年(1637)、農民・キリシタンが蜂起(島原の乱)。一揆勢は、天草四郎を首領として、村ごとに組織的に戦い、最後は原城に集結して籠城しました(各地のキリシタン蜂起とポルトガル船の援軍を期待したとも云われています)。
幕府は板倉重昌を派遣し、九州諸大名の連合軍で原城を力攻めにしますが、功を焦った重昌は大損害を出して戦死。新たに派遣された老中松平信綱は、12万の大軍で原城を兵糧攻めにしました。籠城4か月、兵糧・弾薬が尽きた一揆勢は、幕府軍の総攻撃で全滅。双方の死者は3万数千人(一揆勢2万数千人、幕府軍1万人)とも云われます。
乱後、松倉勝家は失政を問われ斬首改易。原城は二度と使えないよう徹底的に破壊され、一揆勢の亡き骸ごと地中に埋められました。
この乱をきっかけに、幕府は禁教・鎖国政策を強化。この後、キリシタンは人目を避けて仏教や神道を装いながら、外国人宣教師不在の中、それぞれの集団で独自の信仰を守りながら暮らす、「潜伏キリシタン」に変容していきます。
原城跡は、潜伏キリシタン始まりの場所として、世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の一つに登録されています。
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