島原・武家屋敷
島原城外に残る武家屋敷を散策。
島原の城と城下を整備した松倉氏は、城の周囲に上級藩士を、その外側に下級藩士をまとめて住まわせました。
下級藩士の住む地区は、7つの町筋が碁盤の目のように整備され、扶持取り七十石以下の徒士屋敷が690戸ありました。一軒は約90坪の敷地に建坪約25坪の藁ぶきで、隣家とは塀がなく丸見えだったそうです。
城に近い方から下ノ丁、中ノ丁、古丁(ここまで松倉氏時代)、下新丁、上新丁、新建、江戸丁、新屋敷と呼ばれました。
現在残っているのは下ノ丁と江戸丁の一部で、石垣の町筋と山本邸(砲術師範)、篠塚邸(祐筆)、鳥田邸(材木奉行)の三邸(いずれも松平氏時代)が公開されています。
町筋の中央を流れる水路は、水の権現(温泉熊野神社)から引いた清水で、飲み水にも使われ、水奉行が管理して大切にされていました。
武家屋敷地区への入口には、島原藩を立て直した松平氏初代忠房公が「民に時刻を知らしめ、これを励行せしむることは政治の要道である」として、延宝三年(1675)に造らせた「時鐘楼」(復元)があります。
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