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2023/09/17

熊本・田原坂と西南戦争

田原坂は、豊岡の眼鏡橋から一の坂~三の坂まで1.5kmほどの切通しです。この一帯は、西南戦争の激戦地となりました。

20230916b明治新政府の急激な改革は、旧士族の特権や経済基盤を奪い、不平士族による反乱が頻発。

最大勢力の薩摩を危険視する新政府との対立が激化し、明治十年(1877)、薩摩の旧士族らが西郷隆盛を盟主として挙兵します(2月14日)。新政府は、賊徒として討伐軍を派遣。九州西南部で両軍が激しく衝突しました(西南戦争)。

薩軍は、北上の途中、新政府の陸軍熊本鎮台(熊本城)を包囲して猛攻。鎮台の政府軍は劣勢ながら籠城し、持久戦に持ち込みます。

官軍の主力は、博多から南下して三池往還の田原坂を通り熊本に入るルートを進軍。これを予測した薩軍は、主力を熊本城から田原坂に移し、官軍を迎え撃ちます。

3月4日に始まった田原坂の攻防は、激しい銃撃戦と抜刀による白兵戦で一進一退。当初は、士気が高く、白兵戦に長けた薩軍が優勢に展開。戦いが長引くにつれ、近代的な武装と兵力数、補給に勝る官軍が、徐々に押し返します。
3月20日早朝、雨の中、官軍が田原坂の薩軍本営に総攻撃を決行。兵も弾薬も消耗していた薩軍は、不意を突かれて懸命に応戦しますが、各隊が徐々に潰走。田原坂で敗れた薩軍は熊本から撤退し、以降、九州各地で敗走することになります。

西南戦争は、薩摩城山で西郷が自刃して終結(9月24日)。戦死者(官軍6843人、薩軍6784人)の4分の1が田原坂の攻防で命を落としたと云われます。

現在、田原坂には、田原坂西南戦争資料館と慰霊塔が建ち、激しい銃撃戦を物語る土蔵が復元されています。

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