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2023/09/16

熊本・肥後熊本城と加藤清正

熊本城は、肥後の戦国大名加藤清正が築きました。

20230916a加藤清正は、尾張中村の鍛冶の家に生まれ、幼少期から同郷の羽柴秀吉の小姓として仕えました。
秀吉側近の武将として頭角を現し、「賤ケ岳の七本槍」(1583)と恐れられ、「小牧長久手の戦」(1584)、九州征伐(1587)、朝鮮出兵に参戦しています。

肥後は、九州征伐の功労で佐々成政が拝領しましたが、国人一揆で失脚。一揆を鎮圧した加藤清正に北半分(隈本25万石)が、小西行長に南半分(宇土24万石)が与えられました。

関ヶ原の戦(1600)では、九州諸大名が西軍につく中、東軍として参戦。関ヶ原には参陣せず、九州に留まって西軍大名の留守領(小西行長の宇土城、立花宗茂の柳河城など)を陥落させます。その功績により肥後一国五十二万石の大々名となりました。

城は、慶長十二年(1607)に完成し、同時に地名を「熊本」に改称。近江の石工集団(穴太衆)の技術を駆使した急傾斜で高い石垣、多数の櫓を巡らせ、複雑な経路で本丸への侵入を阻む難攻不落の城となりました。
加藤家は二代(32年間)で行状不良により改易。熊本藩は、細川家十二代(240年間)が明治維新まで続きました。

明治十年(1877)の西南戦争では、薩軍が熊本鎮台(熊本城)を猛攻。鎮台の政府軍は劣勢ながら籠城して耐え抜きましたが、この戦いで天守閣と本丸御殿を焼失。城下の町も焼野原になりました。撤退する西郷隆盛は「(政府軍にではなく)清正公に負けた」と言ったとか。

現在の天守は、昭和35年(1960)の再建。熊本大地震(2016)で城内の建物・石垣が大きな被害を受け、30年計画で復興が進められています。

次は、西南戦争の分岐点となった田原坂に向かいます。

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