佐賀・鍋島氏と佐賀城
県立美術館(旧二の丸跡)から佐賀城本丸跡へ。
佐賀は、戦国大名・龍造寺隆信が薩摩島津氏との交戦で敗死後、重臣・鍋島直茂に実権が移りました。
鍋島氏は、秀吉の九州征伐や朝鮮出兵に龍造寺軍を率いて参陣。実力を認められ、肥前の実権を任されます。関ヶ原では東軍として九州の西軍諸将を攻め、小早川秀包の久留米城を落城させました。
江戸期、龍造寺氏の嫡流が絶えると、幕府は鍋島氏を藩主と認定。このため、藩内に長く対立が残りました(鍋島騒動)。
江戸後期、破綻寸前の佐賀藩を立て直し、幕末の雄藩に押し上げたのは、十代直正公です。財政改革にとどまらず、有為な人材を登用し藩政を刷新。さらに西洋技術を研究させて殖産興業を奨励。幕末には、製鉄技術を活かして洋式大砲を鋳造し、蒸気軍艦を建造する強藩となりました。明治新政府で活躍した江藤新平・副島種臣・大隈重信・佐野常民らを輩出しています。
佐賀城は、旧龍造寺氏の砦を天正年間に鍋島氏が居城として整備。江戸期、二度の大火で天守と二の丸を失い、天保期に直正公が本丸御殿を再建。当時の建物は「鯱の門」(国重文)が残り、復元された「本丸御殿」(平成16年)に直正公の「御座間」(市重要文化財)が移築されています。