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2022/07/23

佐賀・有田内山

妻・下の娘と有田焼の里を訪ねました。

20220723有田焼の始まりは、今から400年前に遡ります。秀吉の朝鮮出兵に参戦した肥前鍋島氏は、高度な技術を持った陶工を連れ帰りました。その一人、李参平が有田・泉山の土で白磁器を焼いたのが始まりとされます。

江戸初期、佐賀藩は泉山磁石場に近い内山に陶工を集め、磁器生産の専業地としました。成型~施釉~絵付~焼成の過程を職人たちが分業し、集落の東西端には藩の口屋番所が置かれ、職人や技術の流出に厳しく目を光らせました。

内山は有田焼の産地として栄えましたが、文政十一年(1828)、窯の火が強風にあおられ大火となり、町をほぼ焼失。その後の復興で江戸後期~明治~大正~昭和初期の建物が混在し、独特の景観を造り出しています(国重伝建保存地区)。裏通りには、古い窯の耐火レンガを再利用した土塀「トンバイ塀」の小路が続き、風情があります。

上の写真は、有田ポーセリンパーク内にある有田焼の工房です。ろくろや手ひねり、絵付の体験ができ、家族連れで賑わっていました。

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2022/07/10

久留米・久留米絣とお伝さん

筑後地方で広く生産される木綿の織物「久留米絣」。もとは庶民が各家で紡いだ藍無地の普段着でした。その質素な木綿着に模様を織り込み「かすり」と名付けたのは、久留米城下に住む少女、「お伝さん」こと井上伝(1789-1869)でした。

20220710お伝さんは、江戸後期、久留米の米屋の娘に生まれました。当時は、どの家にも織機があり、機織りができない女性は一人前と認められませんでした。お伝さんも7~8歳から織り始め、12~13歳ころには大人顔負けの腕前だったと云います。

ある日、古い普段着が色落ちして白く斑になっているのを見て、無地に模様を織り込むことを着想。研究を重ねて、織糸を所々括って藍で染め、白い模様を織り込む方法を考案しました。
藍染に白い模様を織り込んだ木綿着は「霰(あられ)織り」と呼ばれ、当時の女性に大人気。お伝さんは、所々掠ったように見えるこの織物を「掠り(絣)」と名づけます。

その後も様々な模様を研究し、近所に住む発明好きの少年・田中久重(後の東芝の祖)に相談。模様糸を工夫したり、織機を改良したりし、様々な模様を織り込むことに成功。「筑後久留米 原古賀 織屋お伝」の商標は広く知れ渡り、多くの弟子が集まりました。

幕末には藩の特産品となり、明治初期の西南戦争で官軍兵士がこぞって土産に買い求め、全国に広まりました。

久留米絣資料館では、久留米絣の歴史や製造工程、戦前に織られた貴重な作品を紹介。お伝さんが使用した眼鏡やハサミなどの遺品も展示されています。

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