大阪・難波宮跡と大阪歴史博物館
かつて大阪には、飛鳥期と奈良期に「難波宮」と呼ばれる都が置かれていました。
飛鳥期の難波宮(645~686)は、孝徳帝が遷都。唐の都に習い、内裏(帝の居住域)と朝堂院(政務場所)を区別して配し、宮殿の周辺に官衙が置かれました。
孝徳帝は、難波宮で皇太子の中大兄皇子、内臣の中臣鎌足らと大化の改新後の制度改革を行いました。天武帝のとき、飛鳥宮との二都制になった後、686年に火災で焼失。
この前期難波宮は、条坊制以前の都として貴重ですが、詳細は不明で今後の研究が待たれます。
奈良期の難波宮(726~745)は、聖武帝が平城京の副都として造営。前期難波宮とほぼ同じ場所に内裏や朝堂院が再建され、後期難波宮は条坊制の整然とした都であったと考えられています。
聖武帝は、疫病や謀反で混乱する社会を仏教と遷都で鎮めようとしました。平城京から恭仁京を経て、744年に難波京へ遷都。翌年には紫香楽宮を経て平城京に都を戻しています。大極殿などの建物は、桓武帝の長岡京遷都(784)で解体移築されました。
旧難波宮跡に建つ大阪歴史博物館では、後期難波宮の大極殿で遷都の詔が発せられた儀式を再現。10Fから後期難波宮の大極殿跡が一望でき、B1Fに前期難波宮の遺跡をそのまま保存しています。
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