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2021/10/10

久留米・からくり儀右衛門

「からくり儀右衛門」こと田中久重(1799-1881)は、幕末から明治初期に活躍した発明家で、東芝の創業者です。

20211010久重は、寛政十一年、久留米の鼈甲細工師の家に生まれました。幼いころから探求心の塊で、9歳のとき「開かずの硯箱」を作り人々を驚かせました。

20代のころ、当時流行していた「からくり人形」に魅せられ、研究に没頭。近くの五穀神社の祭礼で、水からくりなど新しい仕掛けを次々に発表し、話題になりました。九州各地だけでなく、上方や江戸でも興行を行い、からくり興行師として全国的に有名だったようです。

江戸末期、質素倹約の世相になると、30代の久重は、からくり興行から実用品の製作に転じます。大坂に移り、真鍮製の「懐中燭台」や消えないランプ「無尽灯」などを考案。
のち京都で天文学と西洋技術を学び、51歳のときに最高傑作の万年時計「万年自鳴鐘」(国重文)を完成させています。

幕末、各藩は軍備増強に乗り出し、久重も佐賀藩や久留米藩に招かれ、50代半ば~60代を反射炉の建設やアームストロング砲の鋳造、蒸気船の開発などに費やしています。開国後は、西洋の文化に触れ、日本初の蒸気機関車の模型を試作して走らせるなど、探求心は少しも衰えていませんでした。

明治6年、73歳の久重は、新政府の要請で国産の電話機を開発するため上京。2年後、東京銀座に工場と店舗を開設し、のち芝浦に移って「田中製作所」となり、現在の「東芝」に発展しました。

JR久留米駅前には、久重のからくり太鼓時計を模したモニュメントがあり、定時に動き出します。久重が幼少期に遊んだ五穀神社には、銅像(上の写真)が建っています。

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