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2020/02/15

江戸城外・日比谷御門と伊達政宗終焉地

歴史の痕跡を訪ねて、江戸城外を散策しました。

20200215まずは日比谷公園内にある「日比谷見附跡」へ。ここは、江戸城外の日比谷御門があった所です。

江戸城に近いこの一帯は、江戸期に外桜田と呼ばれる大名屋敷街でした。城外の要所には、江戸防衛のため36の外郭門(見附)が設けられ、日比谷御門もその一つです。

御門が設けられたのは三代将軍家光のころ。今の日比谷交差点付近に高麗門・枡形・番所があり、渡櫓から内山下濠に沿って石垣が続く堅牢な造りでした。門は仙台藩伊達家の、石垣は安芸藩浅野家の普請によります。

御門の守衛は、二万石の外様大名が担当したようです。明治初めに取り壊され、現在は浅野家が築いた石垣と内山下濠の一部(心字池)が残っています。

20200215bその少し先、日比谷サローの手前に「仙台藩祖 伊達政宗 終焉の地」の解説版があります。

関ケ原で活躍した伊達政宗は、慶長六年(1601)、徳川家康から仙台藩六十二万石と外桜田の御用屋敷を与えられます。以降60年間、ここに仙台藩江戸屋敷がありました。
この間、政宗は、寛永六年(1629)に日比谷御門の普請を行っています。

政宗は、家康・秀忠・家光と三人の将軍に忠誠を尽くし、高齢ながら病を押して参勤交代で参府した寛永十二年(1635)、江戸屋敷で病没(享年70歳)。その亡骸は葬列で仙台に戻り、霊廟「瑞鳳殿」(仙台市青葉区)に葬られました。

日比谷公園の一帯は、明治維新後に陸軍練兵場が置かれ、戦災後は急速に開発されたエリアで、江戸期の遺構はほぼ残っていません。わずかに解説版で痕跡を知ることができるのみです。

次は、大岡越前邸と南町奉行所の痕跡を訪ねます。

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