予科練平和記念館と土門拳
8月のよく晴れた日、霞ケ浦の予科練平和記念館(阿見町)に行ってきました。
霞ケ浦の旧海軍航空隊には、昭和14年に横須賀から飛行予科練習部(予科練)が移転し、終戦まで阿見は予科練の町として知られました。
練習生は14~17歳で、厳しい選抜と訓練が行われました。下士官候補の彼らには、一般のセーラー襟水兵服と異なり、詰襟に翼マークの短ジャケットに金の七つ釦の制服が与えられ、少年たちの憧れでした。
戦争末期には全国に予科練が増設され、大量採用で特攻要員を速成しました。終戦までの15年間で2万4000人が巣立ち、その8割が戦死しています。
館内は、入隊~訓練~心情~飛翔~交流~窮迫~特攻の7つのテーマで展示・解説しています。屋外には零戦21型と回天1型の実物大模型が展示されています。
個人的には、食事や酒保、休日など、練習生の生活に着目した展示と、志望動機と世相の関連(昭和17年ころは「飛行機や空への憧れ」、昭和18年ころになると「農家の食い扶持減らし」や「出世して食えるようになりたい」、昭和19年以降は「国難を救いたい」)が興味深かったです。
語り部のインタビューを交えた映像記録(6/10の土浦空襲、特攻)は、70年前の「事実」と今の「平和」について深く考えさせられます。
さて、写真愛好家として気になったのは、館内に掲げられた土門拳が予科練を撮った写真パネルです。
氏は、昭和19年、海軍省の依頼で霞ケ浦の予科練甲種13期生と寝食を共にしながら撮影したそうです。
写真のほとんどは敗戦で焼却され、残った写真はわずか。予科練とのつながりを示す写真は、土門拳記念館(山形県酒田市)にもなく、戦後一貫してリアリズムに徹した氏が、若いころに軍の仕事を請け負っていたのはちょっとした驚きでした。
| 固定リンク | 0
この記事へのコメントは終了しました。
コメント