« モネ展 | トップページ | 撮影機材の点検 »

2015/12/20

鎌ヶ谷さんぽ

よく晴れた日曜日、妻と鎌ヶ谷を散策して来ました。

20151220aまずは江戸期の牧(軍馬の放牧場)の跡を訪ねます。
江戸~明治維新まで、今の柏~松戸~鎌ヶ谷~白井~船橋にかけて広大な軍馬の放牧場(下総小金牧)が置かれていました。
毎年、馬を選別する「野馬捕り」が行われ、凹状に土手で囲んだ捕込(とっこめ)に馬を追い込み、網を掛けて捕まえました。当時は一大イベントで、多くの見物人が集まって茶店が出るほどの盛況ぶりだったといいます。
明治以降、牧は払い下げられ、入植開墾で野馬土手はほとんど姿を消しました。 鎌ヶ谷には、貝柄山公園北口の国道沿い(捕込・溜込・払込の土手)と、初富小学校の裏に小金中野牧の野馬土手が残っています。

初富小学校から歩いて鎌ヶ谷大仏へ。

20151220b途中の井草三叉路に、江戸中期に立てられた魚文の句碑があります。
三級亭魚文は、芭蕉の流れを汲む俳人です。碑には、鎌ヶ谷を通ったときに詠んだ句「ひとつ家へ人を吹き込む枯野かな」と、「右木をろし道・左中木戸道」の道標が刻まれています。
鎌ヶ谷は、木下街道の宿場町として賑わった所です。旅籠を出て旅立つ魚文が三叉路を前にどちらへ行こうか思案する様子が目に浮かぶようです。
もっとも、句碑が立っている三叉路は、今では交通量が多い交差点で写真を撮るのも命がけ。とても旅情に浸る雰囲気ではありません。

20151220c少し歩くと、鎌ヶ谷大仏駅のそばに大仏さまが鎮座しています。江戸中期に鎌ヶ谷宿の豪商・大国屋(福田)文右衛門が、先祖供養のため江戸の鋳物師に造らせた阿弥陀如来座像で、高さは1.8mです。
開眼供養は、屋敷から大仏まで街道に琉球畳を敷き詰め、僧侶50人と楽隊を招き、江戸の料理屋から300人分の膳を取り、一分銀と小判の土産付きという盛大なものだったと伝えられています。

鎌ヶ谷大仏駅から電車で初富駅へ。
初富駅近くに鎌ヶ谷市郷土博物館があります。こちらは17年ぶりの再訪。
旧銀行の建物を利用した内部に、市内の縄文遺跡からの出土品や、江戸期に置かれた小金中野牧などの資料を常設展示しています。
20151220d4500年前の縄文女性のほぼ完全な人骨(本物)や、矢じりを作りかけた石塊の展示など、珍しい展示が増えていて、ボランティアの館員さんが詳しく解説してくれました。
かつてこの地にあった東葛人車鉄道や、旧陸軍鉄道第二連隊演習線(現在の新京成線)に関する写真展示もあって、鉄道マニアには堪らないかも。来年2月には、鉄道関係の企画展示を予定しているそうです。

20151220e駅周辺でランチ休憩の後、分水嶺へ。
右京塚の中央消防署の交差点付近は、降った雨水が北の手賀沼、東の印旛沼、南の東京湾と3方向に分かれて流れる分水嶺になっています。
分水嶺は高地や山岳地帯に多く、平地の市街地に見られるのは全国的にも珍しいとされます。
市民にもほとんど知られていなかったため、平成24年1月、市民有志が「雨の三叉路」のモニュメントを造って市に寄贈しました。手賀沼、印旛沼、東京湾の3方向を現す石板を組み合わせ、高さ70cmほどの頂点から流れる水で分水嶺を表現しています。
モニュメントは、分水嶺に近い生涯学習センター(まなびぃプラザ)の正面にあって、自由に見学できます。

最後にクルマで東道野辺に残る旧鉄道連隊橋脚へ。
20151220f旧鉄道連隊は、日清戦争(1894-95)後に編成された鉄道部隊で、旧千葉町に鉄道第一連隊、旧津田沼町に鉄道第二連隊が置かれました。
第二連隊は、津田沼から旧陸軍工兵学校があった松戸間に練習線を敷きました。満州の地形を想定して、わざと勾配や谷を選んでくねくね迂回させ、敷設・架橋の訓練を行いました。
戦後、演習線は新京成線となり、旧カーブ5か所が改修されましたが、現在もくねくねした演習線の面影が残っています。昭和24年に二和向台~鎌ヶ谷初富(当時)間が開通した際、東道野辺にあった急カーブも直線に改修され、跡には橋脚だけが残りました。かつての谷はすっかり住宅地に変わり、橋脚の周りはアカシア児童公園になっています。

いつもはクルマや電車で通過するだけの鎌ヶ谷でしたが、改めて目を向けてみると、意外な見どころが発見できて面白かったです。

| |

« モネ展 | トップページ | 撮影機材の点検 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 鎌ヶ谷さんぽ:

« モネ展 | トップページ | 撮影機材の点検 »