2022/05/23

大牟田・旧三池炭鉱(三川坑)

20220522b三川坑は、三池炭鉱の最後(昭和~平成)の主力坑で、昭和15年(1940)に採炭を開始しました。

2本の大斜坑(2000m級)が有明海の下に広がる深さ350mの石炭層まで伸び、炭鉱夫は人車(ケーブルカー)で地下に降り、横坑のベルトコンベアに乗り換えて切羽場に向かいました。石炭は坑底の貯炭槽から炭車(トロッコ)やベルトコンベアで絶え間なく揚炭し、地上の選炭工場に送りました。

三川坑の開坑で、三池炭鉱の出炭量は終戦前に年間400万tまで増加。戦前~戦中の産業と軍事を支えました。

戦後復興の重要産業として昭和天皇が御巡幸。他方、昭和34年の三池労働争議(戦後最大)、昭和38年の炭じん爆発事故(戦後最悪)が起きた坑口でもあります。

高度成長期に自走枠やドラムカッターなど最新の技術と機械化が進み、三池の出炭量の4割超となる年間270万tを出炭。しかし、エネルギーの主役が石油に移り、石炭も安価な輸入炭に取って替わられ、平成9年(1997)の三池炭鉱閉山で閉抗しました。

坑跡には、第二斜坑の坑口や繰込場、コンプレッサー室、第一斜坑の巻揚機室などが残っています。三川坑跡は世界遺産に含まれておらず、閉山当時のまま時が止まっており、廃墟化しつつあります。

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2022/05/22

大牟田・旧三池炭鉱(宮原坑)

妻と大牟田の旧三池炭鉱跡を訪ねました。

20220522三池の石炭は、室町期(1469)に農夫が山で焚火中に「燃える石」を見つけたのが始まりとされます。江戸中期、柳河藩や三池藩が採掘し、瀬戸内で製塩の燃料として使われました。

明治の富国強兵・殖産興業政策で、西洋から蒸気式巻揚機や英国製ポンプを導入。さらには炭鉱専用鉄道と三池港の築港で輸送力も強化され、最先端の産業モデルとなりました。

宮原(みやのはら)坑は、三池炭鉱の初期(明治~大正期)の主力坑で、明治34年(1901)に採炭を開始。2基の堅坑で深さ150mの石炭層にケージ(昇降機)で人馬を降ろし、横坑を掘って採掘。石炭はケージで揚炭し、地上の選炭場で女衆が石炭とボタを選別。専用鉄道で三池港に運ばれ、ボタは埋立てに使われました。

明治~大正期には年間50万tを出炭しましたが、大正末~昭和初期にはベルトコンベアで大量搬出できる斜坑が主流に。旧式となった宮原坑は、昭和6年(1931)に閉坑しました。

現在は、第二竪坑の鋼鉄製櫓(現存最古、人馬昇降用)、蒸気式巻揚機室、デビーポンプ室の内壁、石積みの北側排水路、炭鉱専用鉄道敷跡が残っています。

三池炭鉱跡は、平成27年(2015)に世界文化遺産(明治日本の産業革命遺産)に登録。宮原坑の建物群と炭鉱専用鉄道敷跡も、その構成要素になっています。

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2022/05/10

日田・私塾「咸宜園」跡

旅の最後に、私塾「咸宜園」跡を訪ねました。

20220508d日田の儒学者・廣瀬淡窓(1782-1856)が、文化十四年(1817)に開いた近世最大の私塾です。

入門時に年齢・学歴・身分を問わず平等に学ぶ機会を与え(三奪法)、厳しい規則の下、塾生の自律(職任制)により運営。試験による昇級制(月旦評)を採用し、塾生は共同生活を送りながら切磋琢磨しました。

明治30年(1897)の閉塾まで、80年間で全国から5000人以上が学びました。門下生に、高野長英(蘭医)、上野彦馬(坂本竜馬を撮影したとされ、写真家の祖)、大村益次郎(陸軍の創設者)、清浦奎吾(大正期の23代首相)らがいます。

「咸宜園」跡(国史跡)には、隠宅「秋風庵」と書斎「遠思楼」が復原されています。水戸・旧弘道館、栃木・足利学校、備前・旧閑谷学校とともに日本遺産「近世日本の教育遺産群」の一つです。

隣接の咸宜園教育研究センターでは、淡窓と咸宜園の足跡を映像で紹介。淡窓の句「鋭さも鈍さも共に捨て難し、錐と槌とに使い分けなば」に、現代にも通じる教育理念を感じました。

初めての日田は、奥が深い街でした。旅の機材はNIKON Z50+Z DX 16-50/3.5-6.3でした。

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2022/05/09

日田・豆田町界隈

日田は、北部九州の交通の要衝として、古くは豊臣秀吉が直轄地(太閤蔵入地)とし、江戸期には幕府直轄領(天領)となりました。

20220508b寛永十六年(1639)、日田に代官所(陣屋)が置かれます。明和四年(1767)には西国郡代に格上げされ、九州全域を監察するようになりました。

陣屋に集まる公金の経理を担当したのは、豆田の商人たちでした。代官と諸藩を取り次ぐ御用商人たちは、公金を元手に諸藩に高利で金を貸す「掛屋」(両替商)を始め、財を成します。こうして還流した莫大な資金は「日田金」(ひたがね)と呼ばれました。

裕福な商人のもと、日田には全国から文人墨客や珍しい品々が集まり、華やかな町人文化が栄えました。三隈川の鵜飼、日田祇園祭の山鉾などは、往時の華やかさを今に伝えています。

豆田の町は、3度の大火を経て、江戸末期~大正期の古い建物が軒を連ね、風情があります(国重要伝統的建造物群保存地区)。妻と散策しながら、天領日田資料館、岩尾薬舗日本丸館を見学(廣瀬家資料館は工事中)。

麦屋カフェで休憩し、私塾「咸宜園」跡に向かいます。

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2022/05/08

日田・小鹿田(おんた)焼の里

妻と日田・小鹿田(おんた)焼の里を訪ねました。

20220508a小鹿田焼は、皿山集落で窯元9軒が一子相伝で継承しています。窯元一軒にろくろは2基までとされ、「機械を使わず」「絵を描かず」「手作りの道具で」「窯元の名を入れない」など、伝統を守って製作されています(国重文)。

小鹿田焼のルーツは、小石原焼にあります。秀吉の朝鮮出兵の際、筑前黒田氏が朝鮮半島から陶工を連れ帰り、その子孫が高取山に小石原焼を開窯。江戸中期、日田の代官が山一つ隔てた小石原から陶工柳瀬三右衛門を小鹿田に招いたのが始まりです。

日田では生活雑器として広く普及し、昭和初期に柳宗悦が紹介して全国に知られるようになりました。昭和29年(1954)、研究のため滞在したバーナード・リーチは、飛び鉋の技法に驚愕したとされます。

集落を一望する小鹿田焼陶芸館では、技法や工程を分かりやすく紹介し、リーチ作の鹿文大皿(1954)も展示しています。

窯元を巡りながら、お気に入りの皿や湯呑を何点か購入。唐臼の土を挽く音、登り窯から立ち上る煙と薪の燃える匂い、天日干しや登り窯で作業にいそしむ人々…。皿山集落の風景は、国重要文化的景観にも指定されています。

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2022/05/07

柳川・旧藩主立花邸「御花」

柳川の旅の最後に、旧藩主立花邸「御花」を訪ねました。

20220504d

旧藩主の立花氏は、天正十五年(1587)、豊臣秀吉の九州仕置(国割)で立花宗茂が柳河十三万二千石を拝領しました。

関ケ原(1600)は西軍に加わり、所領没収の上、改易。筑後には田中吉政が三十二万五千石で入城し、立花氏は所領を失います。

しばらく浪人生活を送り、陸奥棚倉一万石の大名に復帰。元和六年(1620)、田中氏が二代で無嗣断絶すると、柳河に十万九千石で再封され、藩主に返り咲きました。江戸期、没収された旧領に復帰できた大名は立花氏だけとされます。

「御花」は、元文三年(1738)、五代藩主立花貞俶が二の丸御殿から「奥」の機能を移し、側室や奥女中を住まわせたことから、「御花」と呼ばれるようになりました。江戸末期には、本丸御殿の機能も「御花」に移り、藩主の私邸となりました。

和庭園(松濤園)と本館、西洋館は、明治43年(1910)、14代当主立花寛治が伯爵邸として整備したもの。現在も立花家が運営しています。敷地内の立花家史料館(殿の蔵)では、立花家伝来の武具と美術工芸品を展示しています。

今回の旅は、初めての柳川を西鉄「柳川特盛きっぷ」で満喫しました。旅の機材はNIKON Z50+Z DX 16-50/3.5-6.3でした。

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2022/05/06

柳川・北原白秋生家と記念館

柳川は、近代日本の国民的詩人・北原白秋(1885-1942)の故郷です。

20220504c白秋は、明治18年、沖端で酒造業を営む商家に生まれました。実家は、代々藩御用をつとめた海産物問屋で、柳川屈指の豪商でした。白秋は、「トンカジョン」(「良家の大きい坊ちゃん」の方言)と呼ばれ、不自由なく育ちました。

12歳で伝習館中学に進み、このころから詩歌に熱中。16歳のとき、沖端の大火で実家が延焼し、北原家は財を失います。19歳で父の反対を押し切り上京するまで、白秋は柳川で多感な時期を過ごしました。

上京後は、与謝野鉄幹・晶子、石川啄木、萩原朔太郎や室生犀星らと交流。リズム感あふれる自由な作風で、児童誌「赤い鳥」に童謡詩を連載。山田耕筰と組んで童謡歌謡のジャンルを開拓。膨大な童謡と校歌を作詞しました。晩年は、持病から眼底出血を併発して視力を失い、昭和17年11月2日、病没(享年57歳)。

白秋生家は、明治34年(1901)の大火で焼け残った母屋を復元。かつて酒蔵が並んだ敷地には白秋記念館(柳川市立歴史民俗資料館)があり、1階は柳川の歴史と民俗、2階は白秋の生涯と作品を紹介しています。

白秋といえば、市川・里見公園(千葉県)にも「紫烟草舎」(小岩時代の住居)が移築保存されています。

次は、少し戻って旧藩主立花邸に向かいます。

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2022/05/05

柳川・沖端水天宮祭

沖端(おきのはた)水天宮は、稲荷宮・祇園社・水天宮の三神を祀り、地元では「水天宮さん」と親しまれています。

20220504b沖端は、平家の落人が開いた港町で、江戸期には藩の舟小屋(造船所)がありました。

毎年5月3~5日に行われる水天宮祭では、水難除けと安産を祈願して、文化文政期の祭礼形式そのままに、六艘の舟で舟舞台(三神丸)を造り、掘割を上り下りしながら芝居や囃子が奉納されます。

柳川出身の詩人・北原白秋は、詩集「思ひ出」の中で、次のように述懐しています。

「まだ夏には早い五月の水路に杉の葉の飾りを取りつけ初めた大きな三神丸(さんじんまる)の一部をふと學校がへりに發見した沖ノ端の子供の喜びは何に譬へよう。艫の方の化粧部屋は蓆で張られ、昔ながらの廢れかけた舟舞臺には櫻の造花を隈なくかざし、欄干の三方に垂らした御簾は彩色も褪せはてたものではあるが、水天宮の祭日となれば粹な町内の若い衆が紺の半被に棹さゝれて、幕あひには笛や太鼓や三味線の囃子面白く、町を替ゆるたびに幕を替え、日を替ゆるたびに歌舞伎の藝題もとり替えて、同じ水路を上下すること三日三夜、見物は皆あちらこちらの溝渠から小舟に棹さして集まり、華やかに水郷の歡を盡く…」

今年はコロナ禍で3年ぶり、規模を縮小しての催行とか。子どもたちのお囃子を後にして、北原白秋の生家へ向かいます。

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2022/05/04

柳川・川下り

よく晴れたGWの中日、妻と一緒に水郷(すいきょう)柳川を訪ねました。

20220504a柳川といえば、川下りで有名です。この日は、西鉄柳川駅から三柱神社前の松月乗船場へ。「どんこ舟」で旧柳河城の内堀を進み、旧藩主立花邸「御花」の下船場まで約60分のコースです。

柳川の掘割は、江戸初期に筑後三十一万石で入城した田中吉政が、城と掘割を整備したのが始まりです。吉政は、豊臣家家老職だった近江八幡領主時代にも、城下に掘割を巡らせて商業を発展させ、近江商人を誕生させた町づくりに強い大名です。

田中氏は二代で無嗣断絶し、柳河には立花氏が十一万石で再封されました。

城は明治5年(1872)に焼失し、石垣も有明海の干拓に拠出されて失われ、掘割だけが残りました。その掘割も、昭和の高度成長期に埋立の危機に…。市民の反対で守られ、整備されて川下りが始まり、今では観光の主役です。

舟は、船頭さんの竿でゆっくり進みます。軽妙なガイドや唄を聞きながらの舟旅です。途中、日吉神社の花嫁舟と一緒になりました。祝いの舟歌に送られ、花婿さんが赤い傘を差しかけながら進む花嫁舟に、幸せのお裾分けを頂きました。今も、柳川の人々の暮らしには掘割が深く根付いているのですね。

「御花」で舟を降り、老舗「若松屋」本館で鰻蒸籠蒸しの昼食。次は、沖端水天宮に立ち寄ります。

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2022/05/03

カジュアルなクラッシック音楽会

久留米シティプラザで行われた「高嶋ちさ子&加羽沢美濃カジュアルクラッシックスmeetsゆかいな音楽会」に、妻と一緒に行ってきました。

20220503高嶋ちさ子さんといえば、ヴァイオリニストの傍ら、TV番組のざわつく超絶トークで人気です。
ヴァイオリニストとしては、「観ても、聴いても、美しく楽しいヴァイオリンアンサンブル」をコンセプトに、クラッシックが身近に感じられるコンサート活動をされています。

今回も、超絶トークの解説を交えながら、「誰もが知っている曲」を「5分以内で演奏する」コンセプトで、気軽にクラッシックを楽しみながら、ヴァイオリンの技法も理解できるように、構成と演出がとても工夫されていました。

ピアニスト・作曲家の加羽沢美濃さんは、観客のリクエスト数曲を即興メドレーで演奏したり、アンコールで即興曲「久留米に来るのは大変だ」(GWの大渋滞で久留米入りが遅れて大変だったそう)を披露して拍手喝采でした。

高嶋組の藤堂昌彦さん(Vn)、森本安弘さん(Vn)、長石篤志さん(Va)、西方正輝さん(Vc)も、高嶋さんのトークに負けず劣らず、「歌って踊れる弦楽奏者」の楽しいパフォーマンスを披露して、ほぼ満席の場内は大爆笑。とても楽しい2時間でした。

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