2024/05/05

江藤新平展

佐賀城本丸歴史館で開催中の特別展「江藤新平~日本の礎を築いた若き稀才の真に迫る」に行ってきました。

20240505_300この特別展は、没後150年の今年、明治新政府で活躍した江藤の功績と人物像に着目し、江藤の視点で「佐賀の乱」を捉え直し、再評価を試みる企画です。

展示は「江藤の人物像」「江藤が残した功績」「江藤を取り巻く人間模様」「江藤を巻き込んだ佐賀戦争」の4テーマで構成。

下級藩士の家に生まれ、苦労して藩校弘道館で朱子学を、枝吉神陽から国学を、蘭学寮で洋学を学んだことが、幕末~明治維新で開花します。尊王攘夷から開国論に転じ、脱藩し京で尊王派と人脈を広げて帰藩。藩から永蟄居を命ぜられます。

維新後、明治新政府に出仕。東京奠都、三権分立と議会制、藩を廃した中央集権制、四民平等、公平な税制と予算の公開などを提言。文部大輔、左院副議長などを経て、明治五年(1872)、初代司法卿に就任。民の司直たるべきを目指し、民法典の編纂、政治と司法の分離、裁判所の新設、判事・検事・代弁人制度の導入など、日本の近代司法の礎を築きました。

しかし、新政府内の不正を相次いで摘発したことで、次第に政権内で疎んじられます。明治六年(1873)、参議となりますが、征韓論争で大久保利通らに敗れ、板垣退助らと下野(明治六年政変)。明治七年(1874)、民撰議院設立建白書を提出し、薩長閥による有司専制を強烈に批判しました。

この年、江藤は、佐賀の不平士族らを抑えるため帰郷。大久保は、佐賀県令を更迭し、熊本鎮台の陸軍を派遣。これに反発した不平士族らが決起し、江藤も戦わざるを得なくなります(佐賀の乱)。近代武装の官軍の前に潰走し、江藤は薩摩と土佐に決起を促しますが叶わず、官憲に捕縛。東京での公平な裁判を望んだ江藤を、大久保は佐賀に送り、弁明の機会を与えることなく、逆賊として斬罪梟首しました(享年40歳)。

江藤が復権したのは、大正五年。かつての盟友大隈重信が首相のとき、正四位を追贈されています。大隈は「江藤を失ったのは国家にとって甚大な損害で不幸」と述懐しています。

この特別展は、5月12日まで開催中です。

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2024/04/08

博多・筑前一之宮 筥崎宮

筑前一之宮・筥崎宮は、延長元年(923)の創建で、応神天皇(八幡大神)・神功皇后・玉依姫命を祀っています。

Dsc_4677_300宇佐(大分)、石清水(京都)とともに日本三大八幡宮の一つで、鎌倉期以降は武家の信仰を集めました。

鎌倉期、博多は元寇の激戦地となりました。

文永の役(1274)では、上陸した元軍と鎌倉武士団の激しい攻防で、筥崎宮も焼失。時の亀山上皇は、「我が身を以て国難に代わらん」と異国降伏を祈祷。焼失した社殿を再建し、「敵国降伏」の宸筆を下賜したと伝わります。

現在の社殿は、本殿と拝殿が天文十五年(1546)に大内義隆(戦国大名)の 、楼門が文禄三年(1594)に小早川隆景(筑前・筑後領主)の再建(いずれも国重文)。 楼門の扁額「敵国降伏」の文字は、亀山上皇の宸筆を写したものとされ、伏敵門と呼ばれています。

参道の石造一之鳥居は、慶長十四年(1609)に黒田長政(福岡藩主)の寄進です。

毎年9月の「放生会(や)」は、博多三大祭り一つ。「梨も柿も放生会」と謳われ、豊穣を祈り、海と山の幸に感謝する祭礼です。海岸まで続く広い参道は数百軒の露店が並び、参詣者で埋め尽くされます。

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2024/04/07

博多・十日恵比寿神社

博多は、古来から大陸との交易拠点で、重要な湊でした。中世には商人による合議制の自治が認められた商都に発展。戦国期、豊臣秀吉は九州征伐の際、博多に本営を置き、町割りを行いました。九州征伐の功で筑前三十二万石を拝領した小早川氏は名島に城を築き、多くの社寺を博多に寄進しています。

Dsc_4647江戸期、黒田長政が筑前五十二万石で入ると、那珂川の対岸に城と城下を整備し「福岡」と改称。

以降、那珂川の東が「商人の町・博多」、西が「武家の町・福岡」として、それぞれ発展を遂げることになります。

博多の十日恵比寿神社は、七福神の恵比須さまを祀り、漁民・商家の篤い信仰を集めています。

社伝では、天正十九年(1591)、武内五右衛門が香椎宮・筥崎宮へ正月参詣の帰り、千代の松原の波打ち際で恵比寿さまの像を拾い、毎日拝んだところ商売繁盛し、拾った地に祠を祀ったのが始まりとされます。

正月の十日恵比寿祭りは、8日が「初えびす」、9日が「宵えびす」、10日が「正大祭」、11日が「残りえびす」で、博多芸妓衆の「徒歩(かち)参り」が華やかに行われます。

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2024/03/25

天草・富岡城跡

天草の最後に、天草一揆の激戦地・富岡城跡を訪ねます。

Dsc_45762_300富岡城は、関ヶ原の功で天草四万二千石を領した肥前唐津藩主・寺沢広高が、慶長十年(1605)、天草支配の拠点として築いた支城です。

寛永十四年(1637)、寺沢氏二代35年にわたる圧政に天草の領民が一斉に蜂起(島原の乱)。城代三宅重利は藩兵1500人を率いて鎮圧に向かいますが、逆に討ち取られ、一揆勢が城に押し寄せました。

一時は落城寸前になりますが、天然の要害(陸繋島で海に囲まれた山の頂上)に阻まれ、一揆勢は撤退。対岸の島原勢と合流し、原城に籠城することになります。

乱後の寛永十五年(1638)、天草には備中成羽から山崎家治が四万石で入り、富岡藩となります。山崎氏は、乱で荒廃した城と城下町を整備し、植民と新田開発を進めました。

寛永十八年(1641)、山崎氏が讃岐丸亀に転封し、天草は天領となります。天草代官鈴木重昌は、飢饉で苦しむ領民のため、幕府に石高半減を建議するなど、善政で領民に慕われました。

寛文四年(1664)、天草に三河田原から戸田忠昌が二万一千石で入ります。戸田氏は、城と城下の整備を再開しますが、「天草は永久に天領たるべき」と幕府に建議し、自ら城を破却。寛文十一年(1671)、天草は再び天領となり、旧三の丸に陣屋が置かれ、明治維新まで続きました。

富岡城跡は、絵図面が残る山崎・戸田時代の城と石垣を復元。一揆勢の猛攻に耐えた城とは異なりますが、二の丸には寺沢時代の石垣の一部に乱の痕跡が残っています。

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2024/03/24

天草・大江天主堂とパアテルさん

下島の西端、大江集落の天主堂へ。

Dsc_4552_300大江集落も、禁教期に潜伏キリシタンとして独自の信仰を続けた集落です。

明治6年(1873)に禁教が解かれると、いち早くカトリックに復帰。パリ宣教会から神父を迎え、最初の教会(1879)を建てました。

大江集落には、明治中期~昭和初期まで、49年間にわたり大江教会の主任司祭を務めたガルニエ神父との絆が語り継がれています。
ガルニエ神父は、明治25年(1892)、32歳で自ら希望して辺境の大江に赴任。この地を愛し、天草方言を話し、貧しい人々と同じ食事をとり、綻んだ司祭服をまとい、質素倹約しながら布教活動に身を挺しました。貧しい人々や弱い人々に宗教の区別なく接する姿に、人々は「パアテルさん」(神父さんの意)と呼んで慕ったそうです。

明治40年(1907)、神父が47歳のとき、与謝野鉄幹が若い詩人4人(北原白秋、木下杢太郎、平野万里、吉井勇)を連れて訪ねて来ます。パアテルさんに会おうと、富岡の港から丸1日歩いた様子を、紀行文「五足の靴」(東京二六新聞)に発表しています。北原白秋は、のちに「邪宗門」で潜伏キリシタンに触れており、彼らの作品に影響を与えました。

昭和8年(1933)、神父が73歳のとき、すべての私財を投じて、大江の信徒とともに現在の天主堂を建設。昭和16年(1941)に82歳で亡くなるまで、一度もフランスに帰らず、すべてを大江に捧げて天草の土に還りました。

ガルニエ神父は、最後に「墓石を作る金があったら、病人や困った人々に与えるように」と言い残しましたが、信徒たちはこの遺言に背きます。天主堂の西側にルドヴィコ・ガルニエ塔を建て、十字架に聖書の言葉「汝等ゆきて万民に教えよ」と刻み、敬愛する神父の教えを末代まで語り伝えています。

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2024/03/23

天草・今富集落のウマンテラさま

今富集落は、崎津の北隣にある小さな山村です。

Dsc_4542_300禁教期は潜伏キリシタンとして信仰を続け、仏教・神道・修験道と共存した独自の信仰が生まれました。

集落の山々には、聖水汲み場やウマンテラサマ、マルヤマサマと呼ばれる聖地があり、人々は信心具として和鏡、仏像や土人形、石仏にキリスト教的な細工を加えて、祈りを捧げました。

山頂に祀られていた石像「ウマンテラさま」もその一つです。年代・製作者は不明ですが、はっきりした目鼻立ち、総髪と額の前髪、背中の翼、手には剣を持ち、足元では悪魔を踏みつけています。

地元にはバテレンの天使を模した像との伝承があり、15~16世紀のルネッサンス期にヨーロッパで流行した大天使ミカエル像との類似点が指摘されています。

石像「ウマンテラさま」は、崎津教会堂に近い崎津資料館「みなと屋」(旧旅籠「みなと屋」跡)で見ることができます。

今富集落は、明治に禁教が解かれた後は、カトリックに復帰することなく、独自の信仰を続ける「隠れキリシタン」となりました。

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2024/03/22

天草・崎津集落と教会堂

下島の崎津集落は、200世帯ほどの小さな漁村で、戦国期の領主天草氏が招いたアルメイダ神父により、早くから布教が進んだ地域でした。

Dsc_4534_300島原の乱(1637)後、徳川幕府の弾圧で最後の宣教師が殉教(1644)し、国内に宣教師はいなくなりました。キリシタンは、密告を恐れて潜伏し、集落ごとに指導者の下で独自の信仰を続けることになります。

崎津集落では、仏教徒や神社氏子を装いながら、自作のメダルやアワビの貝殻を信心具とし、寺や神社で「あんめんりゆす」(アーメン、デウス)と唱えて祈りを捧げました。

文化二年(1805)、神社に降誕祭の牛肉を供えたことが密告され、潜伏が発覚。住民の7割(1710人)が摘発されました(天草崩れ)。幕府は、取調べの結果、信仰形態がキリスト教とあまりに異なるため、キリシタンでなく異宗を信仰する「心得違い」の者らとして扱い、信心具の没収と絵踏みに応じた人々を赦免しています。

禁教が解かれるのは明治6年(1873)。長崎に大浦天主堂が建ち、外国人宣教師が赴任すると、各地の潜伏キリシタンが信仰を告白。しかし、宣教師不在の230年間も独自の信仰を続けてきた人々は、カトリックに復帰する人、独自の信仰を続ける人(隠れキリシタン)、棄教して寺の檀家や神社氏子に戻る人に分かれました。

カトリックに復帰した集落では、信仰の証として自分たちの教会を建てました。崎津でも、明治21年(1888)に初代教会が建ちます(神社隣に旧修道院として残存)。現在の教会堂は、昭和9年(1934)の建築で、木造(一部鉄筋コンクリート造)の礼拝堂は珍しい畳敷きです。敷地は、厳しい弾圧が行われた旧吉田庄屋役宅跡で、絵踏みをさせた場所に祭壇を祀り、信仰の復活を示す象徴的な建物になっています。

湾口の岬(番所の鼻)では、海上マリア像が海の安全と豊漁を優しく見守っていました。

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2024/03/21

天草・天草コレジヨ館

下島に渡り、旧河内浦(天草市)の天草コレジヨ館へ。

Dsc_4497_300コレジヨは、キリスト教の最高学府です。日本では、イエズス会の日本地区責任者ヴァリニャーノ神父が、織田信長の許可を得て、天正九年(1581)に豊後府内(大分)に初めて設置しました。

その後、イエズス会は、秀吉の伴天連追放令(1587)や豊後大友氏(キリシタン大名)の衰退で、布教拠点を他に移します。

コレジヨも、肥前島原の加津佐を経て、天正十九年(1591)に肥後天草の河内浦へ移転。もともと河内浦は、戦国末期に領主天草氏が布教を許し、キリスト教を奨励した地で、コレジヨの誘致にも積極的だったと云われています。

天草のコレジヨでは、神学、ラテン語、哲学など西洋の最新の学問を教授。長崎に移転(1597)するまで、多くの日本人学生が学びました。その中には、ヨーロッパから帰国した天正遣欧使節の4人(原マルチノ・中浦ジュリアン・伊東マンショ・千々石ミゲル)や、長崎で殉教した三木パウロ(26聖人の一人)などがいます。

また、天正遣欧使節がヨーロッパから持ち帰ったグーテンベルク印刷機を使い、教科書や辞書、翻訳本(「平家物語」や「伊會保(イソップ)物語」など)を大量に出版。これらは「天草本」と呼ばれ、日本初の金属活字による印刷物となりました。

天草コレジヨ館では、河内浦のキリスト教史、コレジヨと天正遣欧使節の足取り、グーテンベルク印刷機の複製などを展示しています。

次は、世界遺産の構成要素の一つ、崎津集落へ向かいます。

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2024/03/20

天草・天草四郎ミュージアム

天草五橋を渡って天草のキリシタン史を巡りました。

まず、大矢野島の天草四郎ミュージアムを訪ねます。

Dsc_4475_300島原の乱(1637)の首領として知られる天草四郎ですが、その実像は謎のままです。

旧小西行長家臣の家に生まれ、名を益田四郎時貞(洗礼名フランシスコ)といいました。

もともと天草地方は、キリシタン大名小西行長(関ヶ原の敗戦で斬首)の庇護の下、領民の多くがキリシタンでした。

徳川幕府の禁教令と、新たな天草領主・寺沢広高(唐津藩十二万石)の重税と迫害に、領民は疲弊。絶望した人々は、当時十代半ばの四郎を、かつて宣教師が予言したデウスの再来として、四郎のもとに結束しました。

追い詰められた領民は、島原勢の一揆に呼応して蜂起。富岡城代を猛攻し落城寸前にしますが、体制を立て直すため撤退。対岸の島原勢と合流し、原城に籠城しました。一揆勢は、数か月の兵糧攻めで瓦解し、幕府軍の総攻撃で全滅。四郎も原城で落命したとされます。

近年の研究で、島原の乱はキリシタンの反乱ではなく、酷政に対する領民の「天草・島原一揆」だったと再定義されています。体制に不満を持った旧小西家臣の浪人らが指揮を執り、領民が信頼を寄せる四郎を首領として担いだというのが実態のようです。

次は、天草に置かれたコレジヨの足跡を訪ねて、下島に向かいます。

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2024/03/06

朝倉・秋月の乱

秋月は、明治初めの不平士族の反乱「秋月の乱」の地としても知られています。

Dsc_4423_300明治新政府内の対立で西郷隆盛が下野すると、不平士族らの不満は新政府の文治派に向かい、各地で反乱や反政府運動が起きました。

肥後の神風連、萩の前原派、筑前の秋月党は、三者同盟を結び、大君を惑わせる奸賊(文治派)排除を大義に反政府活動を展開。

明治九年(1876)、肥後で「神風連の乱」が起こると、呼応して秋月党約250人が決起。西福寺を本陣とし、今村百八郎を隊長に、かねて決起を約した豊前の旧豊津藩士らと合流して萩を目指すべく、小倉方面へ進軍を始めます。

これを察知した新政府は、旧豊津藩士らを拘束。小倉鎮台の陸軍(指揮官は乃木希典)を派遣し、秋月党を迎え撃ちます。豊津の戦いで、近代装備の新政府軍の前に秋月党は潰走。幹部7藩士は江川谷に逃れ、部下の助命嘆願を遺して自刃。隊長の今村は、残党を率いて秋月に戻り、討伐本部(秋月小学校跡)を襲撃しましたが、逮捕されて裁判で斬首刑となりました。

江川谷で自刃した一人、戸波半九郎の屋敷が秋月博物館隣地に残っています。戸波家は、初代藩主からの重臣で地行三百石。代々、馬廻組頭、鉄砲頭、中老職など藩の要職を務めた家柄です。

乱の後、屋敷は旧藩主家に引き取られ、別邸となりました。間取り、床の間、座敷、玄関式台など、旧秋月藩の上級武家屋敷の特徴を残しています。

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